[歌詞翻譯] 僕が死のうと思ったのは – 中島美嘉

其實我對中島美嘉的歌並不熟,不過幾年前無意間看到了下面這個影片,於是就被她這麼強烈的演繹方式吸引,馬上收入歌單中!

非常喜歡這首歌的編排與設計。主歌與副歌都用同一句話做開頭,但在銜接時透過不同的旋律與轉Key來處理,不僅能建構出層次感,也帶出了一個曾經想一了百了的人,不斷在深陷泥沼與得到救贖中來來回回的實感。

前兩段主歌以冷漠的唱腔詮釋負面又消極的歌詞,副歌則是以堅定的聲音傳達理性的原委或理由。在Live版中,第一段主歌接副歌之間的接近嘶吼的吶喊橋段後,又可以立刻轉換成穩定柔和的聲線,實在非常佩服中島美嘉的唱功。最後一段的唱腔也著實讓人看見了希望般地豁然開朗。

讚讚的演唱會版
The First Take 版本

僕が死のうと思ったのは ウミネコが桟橋(さんばし)で鳴いたから
波の随意(まにま)に浮かんで消える 過去も啄(つい)ばんで飛んでいけ
僕が死のうと思ったのは 誕生日に杏(あんず)の花が咲いたから
その木漏れ日(こもれび)でうたた寝したら 虫の死骸(しがい)と土になれるかな

我也曾想過一了百了,因為黑尾鷗(一種中體型的海鷗)在棧橋上鳴叫著
隨著坡浪載浮載沉,也把過往叼著然後飛走吧
我也曾想過一了百了,因為在生日的那天杏花盛開了(杏花的花語:懷疑、疑惑
在樹葉間灑下來的陽光中小憩的話,不知能否跟蟲子的屍體一起變成塵土呢

薄荷飴(はっかあめ) 漁港(ぎょこう)の灯台 錆びたアーチ橋 捨てた自転車
木造の駅のストーブの前で どこにも旅立てない心
今日はまるで昨日みたいだ 明日を変えるなら今日を変えなきゃ
分かってる 分かってる けれど

薄荷糖、漁港的燈塔、鏽掉了的拱橋、被丟棄的腳踏車
在木造的車站的暖爐前,都沒有動身出發到任何地方的念頭
今天完全像是昨天,若要改變明天的話,就一定得先改變今天
這些我都知道,我都知道,但是⋯

僕が死のうと思ったのは 心が空っぽになったから
満たされないと泣いているのは きっと満たされたいと願うから

我也曾想過一了百了,因為我的心變得空空如也了
因空虛而哭泣,是因為我一直期待著空虛能夠被填滿

僕が死のうと思ったのは 靴紐が解(ほど)けたから
結びなおすのは苦手なんだよ 人との繋がりもまた然り(しかり)
僕が死のうと思ったのは 少年が僕を見つめていたから
ベッドの上で土下座してるよ あの日の僕にごめんなさいと

我也曾想過一了百了,因為鞋帶鬆開了
不擅長把它重新綁起來,與人之間的連繫也亦然
我也曾想過一了百了,因為那時有個少年注視著我
在床上道歉下跪,對那天的我說抱歉

パソコンの薄明かり 上階の部屋の生活音
インターフォンのチャイムの音 耳を塞ぐ鳥かごの少年
見えない敵と戦ってる 六畳一間(ろくじょうひとま)のドンキホーテ
ゴールはどうせ醜いものさ

電腦螢幕的昏暗微光、樓上房間日常生活的聲響
對講機的鈴聲、困在鳥籠中摀住耳朵的少年
在跟看不見的敵人戰鬥、在六塊塌塌米大(約三坪)的房間裡的唐吉訶德(意為:在小房間裡幻想自己所嚮往的世界)
反正最後目標一定是醜陋的啊

僕が死のうと思ったのは 冷たい人と言われたから
愛されたいと泣いているのは 人の温もりを知ってしまったから

我也曾想過一了百了,因為被說是冷漠的人
因渴望被愛而哭泣,是因為了解了人的溫暖

僕が死のうと思ったのは あなたが綺麗に笑うから
死ぬことばかり考えてしまうのは きっと生きる事に真面目すぎるから

我也曾想過一了百了,因為你燦爛地笑容
總是不經意就有想死的念頭,一定是因為太過於認真看待活著這件事了

僕が死のうと思ったのは まだあなたに出会ってなかったから
あなたのような人が生まれた 世界を少し好きになったよ
あなたのような人が生きてる 世界に少し期待するよ

我也曾想過一了百了,是因為還沒遇到你
我變得有點喜歡這個誕生了像你這樣的人的世界了
我開始有點期待有你這樣的人活著的世界了

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